子供の誕生と2020年春に起こったこと
2020年3月 我が家に第一子が誕生しました。
この大変な時代に生まれて来た我が子。
妻の体も含め、無事に健康に生まれて来てくれた、それだけでこの上ない喜び。
それなのに、なんと、この我が子が、可愛いという、スペシャルな状態。
この可愛い、というのが、普通の可愛さではなく、スペシャルな、天から降りてきたような、そういう可愛さの子が、我が息子であるということ。
いかに我が息子が可愛いか、をここに延々と書き連ねることもできるのだが、時が経ち、この時期のことを振り返るとき、あの時世の中ではどういうことが起きていたのか、を思い出す材料になればと思い、ここにその記録を残すことにする。
この1年は自分の人生にとって大きな変化の年だった。
転職を行ったり、車の免許を取得したりしながら、夏以降は子供を迎える準備を妻としてきた。
この2020年という困難な時代を、妻と息子の3人でサヴァイブするために色々なことを予測しながら生活してきたつもりだったが、さすがにコロナウィルスだけは誰もが予想できなかった事象だ。
2月3日
ダイヤモンド・プリンセス号が横浜に停泊し始めた頃。
妻は妊娠9か月に入る。
どうやらコロナウィルスというのが普通のウィルスではない、という雰囲気がテレビのニュースから伝わってきた。
それでも、発生源とされる中国で感染者が増え続けてはいたがまだ世界的に広がっているわけでもなかったから、どこかまだ他人事、のような雰囲気。
2月15日
34週目(9か月)。妻が産休に入り、いよいよ自宅で出産の準備が始まる。
なんとこの日、自身が20代のころからやっているバンドの5年ぶりライブ。この頃はまだ自粛という雰囲気ではなかったので普通に開催されました。
この時の周囲の雰囲気は、多くの人がそうだったようにまだ感染怖いよね、という程度で実際自分たちの生活にどう影響を与えるか、までは考えていなかった。
まだライブハウス=飛沫感染の高い場所、というイメージも流布していなかったから、実際世間的にもライブを中止をしたりというのは3月に入ってからだったと思う。しかし会場にはマスクの人が普段より増えていたのは確か。ライブ終わった後はみんなで三蜜のお手本みたいに、ビールを飲みながらガヤガヤしていた記憶。
ちなみに、大阪のライブハウスでクラスターが発生したのも実は2月15日で、それが明らかになったのは3月に入ってから。
2月27日
妻が妊娠10か月(36週目)に入り、いつ生まれてもOKな時期に入る。
政府が全国の学校に休校要請(3月2日~実施)
既にマスクは品薄になっていたが、妻から電話があり「トイレットペーパーが売り切れている」という情報を聞き、会社の帰りに豊洲のドラッグストア、ホームセンターを回ったら、本当に売り切れていた。
前日にperfumeのドーム公演が休止するなど、何かただ事ではないことが起こっている、これからそれが加速していくのでは、という不明瞭な不安をようやく実感し始めた時期だった。
3月16日
妊娠38週目。
出産が間近になり、なんとなく緊張感があるが、残り僅かな二人だけの時間を穏やかに過ごす。
この時期は妻の運動が疎かになりがちなので、散歩もかねて近くの店に食事に行ったり、喫茶店に入ったり、この時期はそこまで行動を制限している感じではなかった。
安倍総理はまだ東京オリンピックをやると言ってて「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして、オリンピックを完全な形で実現する」という今考えるとだいぶ気の触れた発言をしている。
3月24日
ようやくオリンピックの1年延期が決定された。「こんなことが起きるんだね」と二人で話していた。
日本国内の感染者も、1000人を超えた。
3月25日
もしかしたら今日かも、という妻からの電話が。なんとなくお腹もずっしりした感じで、今までと違うことを自分で感じていたようだ。
自宅に帰り、思ったよりゆっくりしたペースではあるが、すでに陣痛が始まっていた。1度目の産婦人科への連絡では様子見で、2回目の電話で病院へ行くことに。
この時の、空気の張りつめた感じは今でも覚えている。
3月26日
0:00をまわったころに産婦人科へ到着。診察。
ものすごく、世界が静かに感じた。
深夜だし実際閑静な住宅街なので普段から静かなのだが、これから妻がお産へと立ち向かうと思うと、その緊張感はとてつもないものだった。
0:10 個室に入り、ここから約6時間、妻が陣痛とたたかう。
4:19 2回目の診察 少しづつ陣痛の間隔が短くなってきている。妻の集中力が凄まじい。
5:25 急にいきみがしたくなり、助産師さんと呼吸を整えている間に、破水。
5:35 分娩室に入る。その後、自分も立ち合い。
6:12 生まれた!
生まれてまもなく妻の両親も到着。
ちなみに、コロナの影響で産婦人科は4月からパートナー(父)以外の家族ですら面会がNGとなってしまったので、このタイミングで両親が子供の姿を見れたのは幸運なことだったと思う。
その日は仕事を休ませてもらい、ほとんどの時間を病院で過ごす。
風呂と、ご飯を食べに一度自宅に戻るため、病院を出る。
その外に出た時の空気の感じが、昨日までの同じ場所とは少し違う場所になったような気がした。それくらいお産の立ち合いが神秘的な体験だったのだと思う。
桜がきれいだった。
この日から31日まで入院。
3月29日
東京に雪が降る。
テレビのニュースがコロナ一色となり、外の景色を見ながら、今のこの世界はいったいどうなっていくのだろう、とぼんやり考える。
そんなポエトリーな状態ではいかんと思い、退院後のことを考える。
3月30日
志村けん逝去。
コロナウィルスがただ事ではないということを、世間も、自分もはっきり自覚した、ある意味最初の出来事だったと思う。
子供を守っていかなければならない、ということをより強く考えた。
3月31日
産婦人科を退院。3人での新しい生活。
またこのころ、会社でもテレワークやテレビ会議などが急速に広がっていき、回線が追い付かなく会社のサーバーにもアクセスできない状況などが続く。
子供が生まれたことによる変化、コロナウィルスによる変化、で少し異次元ぽくなる。
4月7日
緊急事態宣言発令。(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県)
デーパトなど大手店舗が休業。
生活の区役所などの申請や生活の変化にテンパる日々。
4月10日
政府が一律10万円を給付する考えを表明。5月24日現在給付はまだされていない。
国内の累計感染者数が5,000人を超えた。
4月16日
緊急事態宣言を全国に拡大。
4月29日
外出自粛のなかゴールデンウィークに突入。
去年はちょうど教習所に通っていた。1年前に取得しておいてよかったと思う。
今年は外出自粛ということもあり、子供との時間や家の片づけなど有意義に使う。
販売や飲食系の仕事などは休業により仕事がなくなったり、世の中はコロナ事態に対する警戒というより、経済に対する深刻な影響について考えるようになり、結局ウィルスとしてのコロナが終息したとしても、生活に与える影響は2月の頃と比較するととんでもなく膨大になってきて、ポストコロナ、などと言われているがまだコロナウィルスによる後の世界というのがどうなるのか、本当のところは分かっていないと思う。
5月24日の現時点で、一応緊急事態宣言は5月25日に全面解除する方向のようだ。
こんな不安定な状況の中で一生懸命毎日泣きまくる我が息子。
これから自我が芽生え始めて、何かを見たり聞いたり答えたり、コミュニケーションが進んでいく。アラフォーのおっさんでも、日々「難しいなと」と感じるくらいだから、コミュニケーションはとても大切にしていかないと。
他人の気持ちが想像できるような子供に育ってくれたら、と今は考えている。
息子が生まれれてから自宅で過ごす約1か月を、lomographyにまとめました。