目盛りメモリーズ(旧One Click Say Yeah 2020)

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吉村萬壱『ボラード病』読みました

最近感じたことを久しぶりに書いてみる。その1

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吉村萬壱『ボラード病』読みました

友人のクラモト君と久しぶりに飯食った時、いきなりその場で買ってくれた。今年読んだ中ではダントツ、とのこと。
正直に白状すると今の仕事に就いてからのここ1,2年全く小説というものを読んでなかった。いや、村上春樹の新作は買ったが、多分30ページくらいで止まった....。
今自分で「仕事のせい」にしてみたが、多分本当の原因はスマホだろうと思う。

電車に乗っていると、若い人もオッサンもおばちゃんも、皆がスマホをいじっている。
大抵はLINEか、facebookか、動画を見てるか、ゲームをしているかに分かれる。(Twitterは意外と少ない)
4,5年前では絶対になかった光景。その光景に時々イラッとなる。イラッとなりながら、直後に自分もスマホをいじる。

吉村萬壱の『ボラード病』は、皆がスマホをいじる光景にイラッとしながら、自分自身もスマホをいじる、その光景の中に自分も含まれることの恐怖と矛盾を認識させられる作品である。

誰 しもが時に多数派になり得るし、時に少数派になる。一個人は常に様々なペルソナ(←想田監督『演劇』の影響!)を持ち、その時々の役割でマジョリティ的な 考えや振る舞い、マイノリティーな主義や主張を行ったり来たりするものだ。30も過ぎるとそれが人間として自然なんだと思えるようになった。

一番危険だと思うのは、多数派だろうが少数派だろうが、その考え方や立ち位置を過信すること。「自分は正しい」と思うための言動や行動を繰り返して、安心すること。少なくとも自分はそういう雰囲気を醸し出す人とは絶対に関わろうと思わない。

...といいつつも私自身もこんなことさも「正論」のように偉そうにblogに書いている時点でアウト、なわけだが、別に何か主張するつもりもないです。この小説読んで改めて思ったのは、好きなことをひっそりと楽しんで、慎ましく生きよう、という程度....。

直接関係ないが、私は筑紫哲也が好きでした。筑紫哲也の居ない世界は不安だ、とすら思う。「マイノリティーを受け入れる社会こそが健全な社会を形成する」みたいなことを言ってて、子供ながらに感心した記憶がある。何故か、それを思い出した。

 

ボラード病

ボラード病