目盛りメモリーズ(旧One Click Say Yeah 2020)

音楽、映画、その他日常の生活からはみ出たもの、または日常そのもの

アゴーレーカルキン live at 二万電圧 2012.11.18

アゴーレカルキンと出会ったそれこそ2005年頃から、彼らのライブは99%見ていると思いますが、今日の二万電圧はこれまで見てきた中で最もコンセプチャルであり、明確なイメージを持ったライブでした。そしてクラモトイッセイ(バンド)とアゴーレカルキン、この2つのバンドはDrumを除いてメンバーも担当楽器も同じスタイルなのですが、これらがはっきりと異なる表現であることも明確となり、今日のライブを一つの転換期と捉え、まああのどうしようもなく下らない笑いに満ちたステージに対してこんな言葉を用いるのも抵抗がありますが、一種の「祝祭」としての多幸感(!)につつまれた一夜だったことをここに残しておきたいと思います。

 

まず全員パジャマで登場。その後、完全に30分ノンストップPODCAST

 

これで説明は終了。

 

 

これまでのライブでも突発的な(まるで交通事故にでも出くわしたかのような)奇跡の瞬間は幾度とありましたが、PODCAST配信を30分やりきった事が大きな進化だと感じました。特に中盤でクラモトイッセイがついに1人3役の大台に乗った時は人智を越えたサムシングを感じたり。
どうしてRADIOではなく、PODCASTなのか。そもそも何故パジャマ?そういった疑問を元にライブを考えるのはナンセンスとしても、ここまであまりにも音楽的であり、且つ音楽でないものと出会ったのは久しぶりでした。

 

比較の対象がないので何とも説明し難いが、敢えていうならcore of bellsでしょうか。

 

core of bellsも本当にどうしようもないくらいの"寸劇"で笑いと音楽を融合していますが、彼らは真剣に音楽という構造そのものを崩壊させる意志のようなものと向き合っているのに対し、クラモトイッセイ(ここでは倉本君一人のことを指す)が追求するのは人間そのもの。音楽をやる人間、PODCASTをやる人間、パジャマを着る人間...。向かっている矛先は全て人間であることが大きく異なっています。

 

クラモトイッセイはライブだと常に変幻自在に「自分以外の誰か」を模倣しているようにも見え、殆ど素の状態がどれなのか判別つかないという特徴があり、確実にそこにはアイロニカルな視点が盛り込まれていますが、かといって特定の「誰か」を模倣しているわけでもない。

 

誰かのようであり、誰でもない(かな〜り深い感じになってきました (≧∇≦) )

 

アゴーレーカルキンが行き着く先は、もしかしたらRESIDENTSなのかもしれない、とふと思いました。

 

誰かのようであり、誰でもない。その「間借り」的感覚こそが、この音楽を大変ユーモラスなものにし、「下らない」と苦笑させておきながら、そこに卓越したグルーブが突如流れる(一般的にそれを「演奏」という)ことで、何だか分からないけど「真実」みたいなものを突きつけられている気がしてしまう。でも間違ってもそんなこと他の誰にも言えない...。

 

アゴーレーカルキンとは、そんなロックバンドである。

 

agoleyculkin.JPG

4人目のメンバー(照明)も、今日の祝祭に一役買っていたのではないでしょうか。

 

agolayculkin.bandcamp.com